アウトレット家具のチェーン店「ビッグウッド」社長のブログです。
本日は「菜根譚」後半です。
3.富貴、名声、欲望
道徳を住み家として守り抜く者は、一時的には、不遇で悲しい境地となる。
権勢におもねって生きている者は、一時的に栄えても、結局は、痛ましく寂しい境遇となる。
人は「道徳」を住み家として守りぬくべきである。
そうすれば、一時的には不遇であったとしても、道徳の人であったという名は永遠に残るであろう。
名声を独占しない
完全な名誉、立派な節操(評判)は、独り占めしてはならない。
そのいくらかを他人に譲り与えれば、危害を遠ざけ、身を全うすることができる。
不名誉な行為や評判は、それをすべて他人に押し付けてはならない。
そのわずかでも自分が引き受ければ、自分の才能をひけらかすことなく人徳を養うことになる。
本当の敵は自分のこざかしさ
利益を求める欲望の心は、必ずしもすべてが本心を害するものではないが、意固地な意見は、かえって心をむしばむ害虫となる。
注意しなければならないのは人間のこざかしい知恵である、これは周囲に迷惑をかけるとともに、人が世界の正しいあり方へと向かう際の、最大の障害物となる。
富貴にまさる仁義
むこうが富で来るのなら、こちらは仁で対抗し、むこうが爵位でくるなら、こちらは義で対抗する。
君子は、もともと君主、大臣といった富貴には決して篭絡されないものである。
心の空虚と充実
心は空虚にしておかなければならない。
空虚にしておけば、正しい義理がきたり宿る。
また、心は充実させておかなければならない、充実させておけば、物欲は入ってこない。
※ 虚=邪念を持たず心を穏やかにしておくこと
※ 心斎=雑念を抱かず宇宙の本来の姿に同化するという境地
貪らざるを宝となす
人はほんの少しでも欲張る心を抱くと、強い心も惰弱になり、知恵も濁り、恩愛も残酷な心となり、潔癖な心も汚れていまい、一生の品格を壊してしまう。
だから昔の人は、貪らないということを宝とした。
それこそが、俗世を越えられた理由である。
地位、身分を極めない
爵祿や官位は頂上まで極めない方が良い。
極めてしまうと転落の危険がある。
優れた才能は全ては出し切らない方がよい、全て出し切ると、あとは衰えるばかりである。
4.学びと教え
人生を磨く砥石
耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それで初めて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。
もし、言葉が全て耳に心地よく、事柄が全て心に快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。
耳に痛い忠言や部下からの諫言も、、自分を磨く砥石になるのである。
この世に何も不満がなければ、そこで人の進歩は止まってしまう。
それはまるで、自分の手で、自分の貴重な人生を毒の中に投げ込むようなものだ。
家庭教育の心得
家族(同族、親戚を含む)に過失があったら、激しく怒ってはならず、だからといって、軽視して見過ごしてはならない。
もし直接そのことを言いにくいのであれば、他のことにかこつけて、それとなく注意し、今そのことに気づかなければ、別の機会がくるのを待って、もう一度注意する。
時間をかけてみがく
修養は、繰り返し練磨する金属のようにするのが良い。
手短に成就しようとすれば、深い修養とはならない。
また、事業は重い「弩」のようにするのが良い、軽々しく発しては、大きな成果は得られない。
※ 弩=機械じかけで射る大弓
拙の極意
文章は、拙を守って進歩し、道徳は拙を守ることによって完成する。
たったひとつの「拙」の字に無限の意味がある。
「拙」とは、つたない、不器用の意味、自分のことをへりくだっていう場合に使う。
「拙者」「拙宅」など、だが必ずしも悪い意味ではない。
下手に技巧を凝らした文章や、飾り立てた道徳は、帰って、真の目標からは遠ざかっていくのである。
継続は力なり
縄もノコギリのように木を断つことができ、水滴も石を穿つことができる。
道を学ぶ者は、このように努力を続ける心がけが必要である。
もとの力は小さいながら、繰り返しおこなって怠らなければ、ついに目的を達成できる。
小さなことの積み重ねが、ついには偉大な功績を挙げるという意味である。
ひとつ悟る
花を植え竹を植え、鶴と遊び魚を見ても、ひとつ心に得るところがなくてはならない。
もしも漠然と風景を楽しみ、ただ高級品に心を奪われるようであっては、わが儒家の言うところの受け売りの学問、仏教でいうところの空に囚われた考えでしかない。
そこに何の風流があろうか。
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