アウトレット家具のチェーン店「ビッグウッド」社長のブログです。
私は、ビッグウッドの社長をしている杉浦真悟と申します。
年齢は51歳。愛媛県松山市の出身で、農家の長男として生まれました。
5歳のとき父親を亡くして、小学生のときから母親の手伝いをしながら育ちました。
母親に無理を言って、東京の大学に行かせてもらいましたが、卒業したら松山に必ず帰ると母親と約束していましたので、東京で就職しないで松山に戻って働きました。
たまたま、近所の方が家具屋をしていましたので、そこでお世話になり家具の事を勉強しました。
27歳のとき、自分で商売をしたくて独立しようと思い、70坪の倉庫で家具屋を始めました。
最初は同級生と3人で始めたのですが、店が狭くて商品が少なく、汚いのもあってお客様は来店して頂けませんでした。
私はカタログで訪問営業をして家具を売りましたが、当然売上げも利益も少ないので同級生は1人やめ2人やめして自分一人になってしまいました。
生活費もない有様でしたが、なぜか商売が好きで楽しくて自分もやめようとは思わなかったのです。
30歳のとき親に保証人になってもらい、銀行から借金をして150坪の店を建てました。
最初は、激安のチラシも撒き、営業も一生懸命やったので、お客様に喜ばれ3年くらいは生活できる位の収入はあったのですが、4年程(1991年)すると他の大型店が、安物のチラシを撒き集客に力を入れ出したのです。
するとどうでしょう、あっという間に150坪の小さな家具屋にはお客様は来なくなり、売上げも急に下がり出し、まず自分の生活費が出なくなり、社員の給料も出せなくなって、もうどうして良いかわからない有様でした。
一夜で髪が真っ白になったと言う話を聞いていましたが、私の場合は、眉毛が真っ白になりびっくりしました。
大型店で売ってないものはないか、差別化をするしか生き残れないと思いました。
面白い事に、それはバブルの真っ只中の時期でした。
友達や親戚には、何をしても儲かる時に、お前は馬鹿じゃないかと言われました。おそらく、その当時の私の経営能力はかなり幼稚で低かったと思います。
そんな時、営業マンをしていた人(今は我が社の専務)が、傷物家具を売るぐらいしか生きる道はないんじゃないですかと言ったのです。
それが、我が社のアウトレットの始まりです。
最初はお客様に中古品だろうと思われました,まだアウトレットという言葉が知られていない17年前の事です。
とにかく商品を集める事が大変でした、九州の福岡県大川市という所に家具の産地がありますが、そこに毎週買い付けに行くのですが、その当時、傷物家具は卸屋さんがお得意の小売店さんにサービスであげるようなものでした。
我が社は、取引もないメーカーさんや卸屋さんに行って傷物家具を売ってください、というのですから無茶な話です。
それでもこれしかないと思ってますから、いろいろ紹介してもらって傷物家具を集めました。
店も小さいのでたくさんは展示できず、土日で商品がなくなってしまうので、直ぐに仕入れに行かないと売る物がないのです。
どんなものが仕入れできるかわからないのでチラシを工夫して集合写真にしました。
不思議なことに、バブルの真っ只中だったのですが、お客様の中には傷物家具でも良いと言われる方がいらっしゃってよく売れました。
それでこれはいけると思って、松山市内に2店舗目を出しました。
すると益々仕入れが大変になり、大川市に倉庫を借りて、そこで商品を現金で買い取る仕組みを構築しました。
そして専務が大川市に単身赴任して、メーカーさんや卸屋さんと人間関係を作り上げていったのです。
今では海外商品も直輸入出来るようになり、国内メーカーさんの商品(換金商品、旧型品、廃盤品、傷物、倒産品)も安く買い取る事ができるようになりました。
現在弊社は、直営店9店舗、FC店14店舗まで成長する事が出来ました。
年齢は51歳。愛媛県松山市の出身で、農家の長男として生まれました。
5歳のとき父親を亡くして、小学生のときから母親の手伝いをしながら育ちました。
母親に無理を言って、東京の大学に行かせてもらいましたが、卒業したら松山に必ず帰ると母親と約束していましたので、東京で就職しないで松山に戻って働きました。
たまたま、近所の方が家具屋をしていましたので、そこでお世話になり家具の事を勉強しました。
27歳のとき、自分で商売をしたくて独立しようと思い、70坪の倉庫で家具屋を始めました。
最初は同級生と3人で始めたのですが、店が狭くて商品が少なく、汚いのもあってお客様は来店して頂けませんでした。
私はカタログで訪問営業をして家具を売りましたが、当然売上げも利益も少ないので同級生は1人やめ2人やめして自分一人になってしまいました。
生活費もない有様でしたが、なぜか商売が好きで楽しくて自分もやめようとは思わなかったのです。
30歳のとき親に保証人になってもらい、銀行から借金をして150坪の店を建てました。
最初は、激安のチラシも撒き、営業も一生懸命やったので、お客様に喜ばれ3年くらいは生活できる位の収入はあったのですが、4年程(1991年)すると他の大型店が、安物のチラシを撒き集客に力を入れ出したのです。
するとどうでしょう、あっという間に150坪の小さな家具屋にはお客様は来なくなり、売上げも急に下がり出し、まず自分の生活費が出なくなり、社員の給料も出せなくなって、もうどうして良いかわからない有様でした。
一夜で髪が真っ白になったと言う話を聞いていましたが、私の場合は、眉毛が真っ白になりびっくりしました。
大型店で売ってないものはないか、差別化をするしか生き残れないと思いました。
面白い事に、それはバブルの真っ只中の時期でした。
友達や親戚には、何をしても儲かる時に、お前は馬鹿じゃないかと言われました。おそらく、その当時の私の経営能力はかなり幼稚で低かったと思います。
そんな時、営業マンをしていた人(今は我が社の専務)が、傷物家具を売るぐらいしか生きる道はないんじゃないですかと言ったのです。
それが、我が社のアウトレットの始まりです。
最初はお客様に中古品だろうと思われました,まだアウトレットという言葉が知られていない17年前の事です。
とにかく商品を集める事が大変でした、九州の福岡県大川市という所に家具の産地がありますが、そこに毎週買い付けに行くのですが、その当時、傷物家具は卸屋さんがお得意の小売店さんにサービスであげるようなものでした。
我が社は、取引もないメーカーさんや卸屋さんに行って傷物家具を売ってください、というのですから無茶な話です。
それでもこれしかないと思ってますから、いろいろ紹介してもらって傷物家具を集めました。
店も小さいのでたくさんは展示できず、土日で商品がなくなってしまうので、直ぐに仕入れに行かないと売る物がないのです。
どんなものが仕入れできるかわからないのでチラシを工夫して集合写真にしました。
不思議なことに、バブルの真っ只中だったのですが、お客様の中には傷物家具でも良いと言われる方がいらっしゃってよく売れました。
それでこれはいけると思って、松山市内に2店舗目を出しました。
すると益々仕入れが大変になり、大川市に倉庫を借りて、そこで商品を現金で買い取る仕組みを構築しました。
そして専務が大川市に単身赴任して、メーカーさんや卸屋さんと人間関係を作り上げていったのです。
今では海外商品も直輸入出来るようになり、国内メーカーさんの商品(換金商品、旧型品、廃盤品、傷物、倒産品)も安く買い取る事ができるようになりました。
現在弊社は、直営店9店舗、FC店14店舗まで成長する事が出来ました。
PR
この記事にコメントする
<<
ビッグッド社名の由来
HOME