今日は、森信三先生の古典的名著ともいえる「修身教授録」から、「人間の真実の生き方とは」についてお話したいと思います。
人間と言うものは、普通には、すべて現在より一段上に上がりたいと思うものであります。
しかしながら我々人間と言うものは、たとえ一段上の地位に登ってみても、それを満足して喜ぶのは束の間で、しばらくすると、さらに又一段上の地位に登りたくなるのが人情の常であります。
実際我々人間が、地位とか名誉を得た喜びと言うものは、ほんの当座の間に過ぎません。
そこで今話をわかりやすくするために、一つの喩えをとってみることにしましょう。
例えばここに、様々な鉱石の層よりなる大きな絶壁があるとして、そしてその絶壁は、上へ行くほどよい金属があるとしてみましょう。
するとその場合、先に述べた社会上の地位を、一段でも上へ上へ登ろうとする人は、いわばかような絶壁へ梯子をかけて、上へ登るほど、そこには立派な鉱石があるからといって、一段でも上の梯子段へ登ろうとあがいているようなものです。
一段でも上の梯子へ登ろうとするものは、一段でも上に上れば、そこにそれだけよい鉱石がある以上、一応もっとも千万と言えましょう。
しかしながら、ここに一つ見逃してはならない大事な事があると思うのです。
それは何かと言うに、ただ梯子段を上に登ることばかり考えて、どこか一ヶ所にとどまって、鉱脈に掘り込むことを忘れてはならぬと言うことでしょう。
もし梯子段を上に登る事ばかり考えて、そのどこかに踏みとどまって鉱石を掘ることに着手しない限り,一番上の段階までのっぼって、例えそれが金鉱のある場所だとしても、その人は一塊の金鉱すら我が手には入らないわけです。
これに反して、仮に身は最下の段階にいたとしても、もしそれまで梯子段の上のほうばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っすぐ我が眼前の鉱石の層に向かって、力の限りハンマーをふるって掘りかけたとしたら、
たとえそれは金鉱や銀鉱ではないとしても、そこには確実に何らかの鉱石が掘り出されるわけであります。
なるほど鉄や鉛は、金銀と比べればその値段は安いでしょう。
しかし、また世の中と言うものはよく出来たもので、鉛は鉛、鉄は鉄と、それぞれそれでなくては用をなさないところもあるのです。
いかに金銀が尊いからと言って、金銀の太刀では戦争は出来ません。
いわんや梯子段をただ形式的に上へ登る事ばかり考えている人間は、仮に金銀鉱のところまで達したとしても、実は一物をも得ずして、梯子段をさらに一段上へ登ろうとする人間です。
さて以上は単なる喩えに過ぎませんが、しかし私には、そこにどうしても無視することの出来ない、人生の貴重な真理の一つが含まれているかと思うのです。
皆さん、森信三先生の「修身教授録」の中からの文章ですが、皆さんの人生の生き方の参考になるのではと思い書いてみました。
哲学書ではありますが、面白いので是非読んで見て下さい。
株式会社 家具のアウトレットビッグウッド 杉浦眞悟