今日は、「謙虚さ」についてお話したいと思います。
いかなる素晴らしいものも、「謙虚さ」を失えば人間的な価値を失ってしまう。
どんな美人でも傲慢な美人は、人間的な美しさを感じさせない。
どんな善でも傲慢な善は、偽善である。
どんな真理でも、どんな正しさでも、強圧的で傲慢な主張は人間的な在り方において正しいとはいえない。
なぜなら、その傲慢な主張によって人間は喧嘩をし、戦争をし、殺し合うからです。
人間的な行為は、全て根底にこの「謙虚さ」があってこそ、はじめて人間的意味を持つわけです。
「謙虚さ」を見失った時、人間は人間である事を原理的に失格するのです。
だから人間はその時、必然的に頂点から引きずり落とされてしまうと言う結果を招きます。
それでは、どうすれば謙虚さが滲み出てくるのでしょうか?
それは、人間と言うのは不完全なものであると言う自覚を持ち、思い出しただけでも謙虚にならざるを得ないような何かを自分の中に常に持っている事が大切です。
人間はみんな不完全だ、だから失敗や欠点をお互いに責め合ったならば、この世は地獄になる。
「責め合えば地獄」、だから許しあって生きて行こうじゃないか、そういう気持ちが湧いてくれば、安心して生きていく事ができる社会、家庭、会社がつくれます。
罪は罪で償わなければならないが,とことん責めて責めて責めきって、逃げ場の無い所まで追い込んでしまうと言う無慈悲な、非人間的な事をしてはいけない。
失敗は失敗で償わなければならないが、本当に申し訳ない事をしたという気持ちがその人の中にある事を確認できれば、最後は許さなければならない。
最後は許しあわなければならないと言う気持ちが出来る根底には、常に自分を罪の意識の中に置いて、自分はそんな大したものではないという気持ちが必要です。
許しあって生きていかなければならないと言う気持ちが強くなれば、腹が立つ事を相手にされた場合でも、怒るのではなく、叱って許す事ができるはずです。
ここに、謙虚さが実感にまで深まった人間とそうでない人間との大きな違いがあります。
最後は許そう、許さなければならない、と言う気持があれば、叱っていながら、その叱りの中に愛があります。
最後は許そうと言う気持の中には愛がある、だからこそ人間は救われるのです。
以上の文章は、芳村思風先生の「人間の格」という本から抜粋しました。
哲学者として、「感性論哲学」を唱える素晴らしい方であります。
皆さん、是非読んでみて下さい「コスモ教育出版」から発刊されています。
株式会社 家具のアウトレットビッグウッド 杉浦眞悟